アシュタンガヨガのポーズは指導者から「もらう」もので、自ら次のポーズを欲しがってはいけない・・・という「決まりごと」の奥に隠された、私達の心の機微についての考察です。
IT’S OKAY TO WANT THE NEXT POSE
http://leapinglanka.blogspot.jp/2012/12/its-okay-to-want-next-pose.html
次のポーズを欲しがるのは、決して悪いことじゃない。
いや、悪くないどころか、それは普通に想定内というか、アシュタンガをマイソールスタイルで練習する以上、あたりまえに生まれる副産物みたいなものだと思う。
だってさ、マイソールクラスという空間でボク達は皆、他の大勢の人達と共に同じ場所で練習するんだけど、中にはフンワリと空を舞ったり、驚異的な動きやポーズをやってる人もいたりするわけで。
ギータに書かれているように、もし「ヨギとは、難しいことを容易に見せる術、すなわち行為におけるスキルを持つ者である」ならば、まるでデモンストレーションのようにフワリと浮かんだり、しなやかで柔らかにポーズをこなす、憧れのヨギ・ヨギーニのようになりたい、と誰もが思うんじゃないかな。だって、そういうポーズの習得こそが、ボク達が毎日、それも早朝に、ゆっくり眠るという人生の楽しみすら投げ打ってスタジオへ通う原動力みたいなものなんだから。
で、そのマイソールクラスという空間には、興味深いエネルギーのダイナミズムがあるんだよね。権威ある者の姿が、文字通り肉体的にキミの上にのしかかるように存在し、キミの努力に対して「次のポーズを与える」という形でご褒美をくれるんだけど、その承認の模様は、他の人達の目の前であからさまに行われるんだ。
こういうトコロから探究すべき心の豊かな機微や傾向が見えてきて、例えば、許可や承認やサポートを得るために、こんな風に誰かの顔を見上げたりしたのは、うんと昔の子供のころ両親に対して以来だな、って改めて感じたよ。
他にどんな先祖帰り的で、むき出しの感情がボクたちの中に潜んでいて、こんな風に思いを蘇らせたりするのかな?とか、気になるよね。
それに、アシュタンガヨガのシリーズ自体が直線的で前進的な構成になっていて、前のポーズは次の更に難しいポーズへの鍵を開ける役割を担っているのだから、次のポーズを欲しがる気持ちというのは、理にかなっているんじゃないかな。
「プライマリーシリーズがこんな風に感じさせるのだから、セカンドシリーズは一体どんな感じになるんだろう?パシャーサナでこんな感覚になるのなら、クラウンチアーサナはどうなんだろう?ドヴェイパダは簡単にできそうだけど、実際にはどうなんだろう?」
純粋な好奇心や不思議に思う気持ちは、多分こんな風に展開していくんじゃない?
これって、ごく自然なことだし、こう思うのは普通に想定内だよね。
だってさ、好奇心や不思議に思う気持ちは、解決すべき問題ではないし、癒すべき古傷でもなくて、ましてや克服すべきモノでもないんだから。
だとしたらさ、次のポーズを欲しがるような純粋な好奇心って、ひとつのギフトだと思うよ。
この好奇心は、自分自身を深く学ぶことになるし、練習をさらに継続的にしてくれる。そして先生との対話の手助けもなるだろうし、そしてなにより、何故ボクたちがヨガをしているのかを教えてくれるんじゃないかな。
重要なのは疑問を持つことを止めないこと。好奇心はそれ自体に存在意義がある。永遠や人生や実在の驚くべき構造という神秘について熟考すれはするほど、畏敬の念を持たずにはいられない。この神秘について、少しでも理解を深めようと努力するだけで、それは充分なのだから、この神聖な好奇心は決して失ってはならない。(アインシュタイン)

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