2016年1月9日土曜日

Reflections on Practice by Paul Dallaghan

プラナヤマのティワリジ、アシュタンガのグルジ(パタビ・ジョイス)に師事した、プラクティショナーPaul Dallaghan の動画をご紹介します。


単なる表面的なポーズや動きの美しさなら、もっと若くて身体能力に長けた人達のパフォーマンスを鑑賞すればいいのですが、長い経験に裏打ちされた、プラクティスにおける自身の「在り方」の深みを感じられる動画は、まだまだ少ないです。

このPaul Dallaghanの動画は、肉体的ピークは過ぎたであろう彼自身の等身大のプラクティスと、その長い経験から得た洞察をシンプルに字幕で表現されていて、プラクティスというのは、パフォーマンスではないのだな、と感じさせてくれる秀作。

わかりやすくて、ゆっくりな英語字幕ですので、ぜひご覧ください。また、一部を日本語訳しましたので、載せておきますね。




   
    私はいまでもまだ、このプラクティスが大好きです
    始めたばかりの規則ずくめの頃から現在に至るまで
    純粋な好奇心と、献身と、愛情をもって
    1日たりとも休んだことはありません

    プラクティスは次第に
    クリアな明晰さと至福に満ちた成熟へと変容していきますが
    それは推測や憶測や空虚な言葉によってではなく
    プラクティスの実践を継続することによって可能となります

    様々な経験を通り抜けていくためには
    時間をかけての継続が必要です
    とても長い期間です

    プラクティスは私を変えました
    より良き状態へと

    プラクティスはあなた自身に働きかけます
    自分自身を見つめ
    自分の習慣や、エゴや我儘さ、傲慢や偏見
    そして執着や恐怖と、向き合うことになります

    プラクティスには目的があるのです
    無意識の習慣である自分の行動や思考のパターンを
    あなた自身が解き放つための手助けとなってくれるのです

    そう、自由になるために

    もちろんそれは簡単なことではないけれど
    でも試してみる価値はあります

    あなたは、人生のすべてのものを有難く感謝していますか?
    あなたは、人生のすべてのものに価値を見出していますか?
    あなたの身近にいる人々や、あるもの、を当たり前だと思うのは簡単です。
    あなたは、自分が直面している試練やチャレンジに、価値を見出していますか?
    さまざまな形をした、私たちの人生における学びを、深く慈しんでいますか?

    助けを求めましょう
    あなたが求めれば、それはやってきます

    誠実に、正直になれば、あなたのハートが語ります

    クリアな明晰さを求めましょう
    そうすれば、自分にとって本当は何が必要なのかが見えてきます

    ガイドや導きを求めましょう
    その導きに従えるような、内面の強さを求めましょう

    オープンになって、謙虚になって、助けを求めましょう

    単にポーズをするだけではなく
    アウェアネスをもってプラクティスをしましょう
    よく理解をしながらプラクティスをしましょう

    定期的に継続して行いましょう
    コツコツと勤勉に行いましょう

    「自分がいま何をしているのか」ということと
    しっかりつながりましょう
    しっかりと感じましょう
    その内部にしっかりと存在しましょう

    これらはつまり、あなたが自分自身との関係を築く、ということです
    プラクティスは、あなたに、あなた自身を届けてくれます
    あなたはもっと自分自身を理解するようになり
    もっと自分自身が心地よく感じられてきます

    ただし、それには、じっくりと長い期間をかけて行う必要があります

    あなた自身に働きかけるために、プラクティスをしましょう

    アサナをするときには、それを感じ取ってください
    自分の呼吸に寄り添いましょう
    なにも考える必要ありません
    あなたは、ただ、しっかりとそこに在ればいいのです
    そうすれば、おのずとあなたは、その中にいることでしょう
    それを感じ取ることでしょう

    あなたが何をしているのか、をしっかりと反映させましょう
    そうすることで、自分自身の理解が深まります
    よりよい理解とともにあることで
    あなたはプラクティスの中で、さらに進化していきます

    プラクティスはあなただけのものではなく
    あなたの先生や家族によって、常に変化を遂げています

    永遠の愛と感謝の気持ち
    あなたと、全ての人々が幸福で自由であるよう
    愛を感じましょう、喜びを経験しましょう
    プラクティスをしましょう

    私達が沢山のものを分かち合えるように
    プラクティスを行いましょう

IT’S OKAY TO WANT THE NEXT POSE by Jason Stein

本日(*注:2012年12月当時) より秋谷ヨガハウスで週末ワークショップ開催中のジェイソン先生。静かでナチュラルで、普通にカジュアルで、だけど物事の裏に潜む本質をしっかりと見据える何気ない姿勢に、参加している私達の心が動かされます。そんなジェイソン先生のブログの日本語訳第3弾です。

アシュタンガヨガのポーズは指導者から「もらう」もので、自ら次のポーズを欲しがってはいけない・・・という「決まりごと」の奥に隠された、私達の心の機微についての考察です。


IT’S OKAY TO WANT THE NEXT POSE
http://leapinglanka.blogspot.jp/2012/12/its-okay-to-want-next-pose.html




次のポーズを欲しがるのは、決して悪いことじゃない。

いや、悪くないどころか、それは普通に想定内というか、アシュタンガをマイソールスタイルで練習する以上、あたりまえに生まれる副産物みたいなものだと思う。

だってさ、マイソールクラスという空間でボク達は皆、他の大勢の人達と共に同じ場所で練習するんだけど、中にはフンワリと空を舞ったり、驚異的な動きやポーズをやってる人もいたりするわけで。

ギータに書かれているように、もし「ヨギとは、難しいことを容易に見せる術、すなわち行為におけるスキルを持つ者である」ならば、まるでデモンストレーションのようにフワリと浮かんだり、しなやかで柔らかにポーズをこなす、憧れのヨギ・ヨギーニのようになりたい、と誰もが思うんじゃないかな。だって、そういうポーズの習得こそが、ボク達が毎日、それも早朝に、ゆっくり眠るという人生の楽しみすら投げ打ってスタジオへ通う原動力みたいなものなんだから。

で、そのマイソールクラスという空間には、興味深いエネルギーのダイナミズムがあるんだよね。権威ある者の姿が、文字通り肉体的にキミの上にのしかかるように存在し、キミの努力に対して「次のポーズを与える」という形でご褒美をくれるんだけど、その承認の模様は、他の人達の目の前であからさまに行われるんだ。

こういうトコロから探究すべき心の豊かな機微や傾向が見えてきて、例えば、許可や承認やサポートを得るために、こんな風に誰かの顔を見上げたりしたのは、うんと昔の子供のころ両親に対して以来だな、って改めて感じたよ。

他にどんな先祖帰り的で、むき出しの感情がボクたちの中に潜んでいて、こんな風に思いを蘇らせたりするのかな?とか、気になるよね。

それに、アシュタンガヨガのシリーズ自体が直線的で前進的な構成になっていて、前のポーズは次の更に難しいポーズへの鍵を開ける役割を担っているのだから、次のポーズを欲しがる気持ちというのは、理にかなっているんじゃないかな。

「プライマリーシリーズがこんな風に感じさせるのだから、セカンドシリーズは一体どんな感じになるんだろう?パシャーサナでこんな感覚になるのなら、クラウンチアーサナはどうなんだろう?ドヴェイパダは簡単にできそうだけど、実際にはどうなんだろう?」
純粋な好奇心や不思議に思う気持ちは、多分こんな風に展開していくんじゃない?

これって、ごく自然なことだし、こう思うのは普通に想定内だよね。

だってさ、好奇心や不思議に思う気持ちは、解決すべき問題ではないし、癒すべき古傷でもなくて、ましてや克服すべきモノでもないんだから。

サンスクリット語で好奇心はスタイバーヴァ(潜在的に常に存在する基本的な感情)と呼ばれ、ラサ(風味・味、感情状態、美的陶酔)と、アドブタ(不思議・未曾有・めずらしいこと、びっくりすること)とヴィラ(英雄的な・真実に対して情熱的になること)と関連付けられて表現される、と定義されているのは興味深い観点だよね。

だとしたらさ、次のポーズを欲しがるような純粋な好奇心って、ひとつのギフトだと思うよ。

この好奇心は、自分自身を深く学ぶことになるし、練習をさらに継続的にしてくれる。そして先生との対話の手助けもなるだろうし、そしてなにより、何故ボクたちがヨガをしているのかを教えてくれるんじゃないかな。

    重要なのは疑問を持つことを止めないこと。好奇心はそれ自体に存在意義がある。永遠や人生や実在の驚くべき構造という神秘について熟考すれはするほど、畏敬の念を持たずにはいられない。この神秘について、少しでも理解を深めようと努力するだけで、それは充分なのだから、この神聖な好奇心は決して失ってはならない。(アインシュタイン)

THE AGONIES OF YOGA PHOTOS by Jason Stein

前回のジェイソン先生のブログ・その1が、ちょっとだけ反響あったので、第2弾も引き続き掲載させていただきます。

ユーモラスな中にも、シッカリとした芯があって、アシュタンガヨガを教える上で大切にしていること、理想主義に傾倒することへの警告、アシュタンガヨガのパワーについてなどなど、興味深い内容です。



THE AGONIES OF YOGA PHOTOS (Sept 3, 2010)
ヨガ写真にまつわる悩み (2010/09/03)

http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/09/agonies-of-yoga-photos.html



自分が練習をしている写真を見るまでは、「フルーツバスケット」という言葉には、まったく馴染みがなかった。

それは、ボクが東京にいた時のこと。ナイキの青いヨガパンツ(セール品)を買ったので、友人のクランティにカポターサナの写真を撮ってもらったんだ。自分でも、このポーズを実際に見てみたいな、と思っていたことだし。

で、どうだったかというと、この自分のカポターサナ写真を見て、初めて「フルーツバスケット」というものを意識したって次第。つまりね、小銭入れとか、豆の袋とか、宝石入れとか呼ばれている、いわゆる股間のモッコリとやらの、無駄に際立った膨らみが、青いスパンデックス素材でシュリンクをかけられたように包装されているさまを、その写真の中に見つけたんだ。



ま、このヨガ写真におけるボクの「フルーツバスケット」は、アシュタンガヨガを教えようかなぁ、と考え始めるキッカケでもなんでもないんだけどさ。というか、実際ボクがアシュタンガヨガを細々ながらも生業として教え始めていく過程は、実はずいぶんとゆっくりと時間をかけて、様々な変化が重なり合って、それらがいつの間にか、ひとつの方向へ向かって流れていった・・・そんな感じだったんだしね。

だけど、「このスタイルのヨガを教えるんだ」という種が、いったん自分の中に蒔かれてからというもの、本当に様々なやり方で水が与えられていったんだよ。自分の意図的な選択はもちろんのこと、妻や友人からの激励、昔の先生からのサポート、それから思いがけない幸運が何度もあったりと、非常に小さくて、あまり関係のなさそうな選択が、大きく積み重なって、蒔かれた種から芽が出て、花が咲き始めたんだ。

マイソールクラスを”教えて”いるときって、本当に活き活きとしてくるのを感じるよ。それはつまり、ボクがシェアされてきたものを、そのまま生徒達にシェアするって、ってことなんだよね。もちろん、果たしてそれが、21世紀の現在を生きる我々にとって、どのような意味を持ちえるのか?なんて壮大なことは、まったく判らないんだけどさ。

ダグラス・ブルックスによるヨギの定義に、「不可能なことをいとも簡単に見せる能力を持つ者」というのがあって、ボクはこれが結構気に入ってるんだ。不可能なことを努力してないように見せる能力、というのは、エネルギーをいかに効率的に管理運用するかって、ことなんだよね。

実際アシュタンガヨガの練習は、このエネルギー制御地図の探求へとボクを導いてくれたし。このプラクティスを介して、ボクたちは自身のエネルギーや、また自分を超えるエネルギーをも、浄化し、寄せ集め、そして方向づけたりしているんじゃないかな。

これはティム・ミラーから聞いたんだけど、グルジは「すべてのヨガスタジオはハヌマン神を祀るべきだ」と言っていたそうだよ。猿の姿をしたハヌマンは、空を飛び、風から生まれ、男性神ラーマと、その妻、女性神シータの再統合を導いたことで知られるよね。そう、ハヌマンは、まさにプラナのシンボルなんだ。グルジがティムへ伝えたかったのは、プラナのシンボルであるハヌマン神によって、外部のプラナ(エネルギー)が一番わかりやすいカタチに顕現化された「お金」がより良く流れる手助けをしてくれるだろう、ってこと。




ところでヨガを教え始めて、しばらくたつと、ヨガスタジオやジムやスポーツクラブなどから、サイトやチラシに掲載するための写真を依頼されるようになったんだ。

これは事件だったよ。まず、ボクの中の未熟な不安定さや、教えることへの恐怖といった感情を、浮き上がらせてくれた。自分を写真というカタチで提示することは、ブログを書いたりするよりも、ずっと深くて意味深長に思えた。

自分にはそれだけの価値があるんだろうか?本当に準備ができているのだろうか?こんな自分でも充分なんだろうか?シェアできる何かを実際に持ちあわせているのだろうか?技術と共に伝えていけるほど、本当に「このヨガ」を理解しているのだろうか?・・・といった感じで、「教える」という選択と、しっかりと向き合うように、仕向けてくれた。

アシュタンガヨガは、あまりにパワフルで大きな可能性を秘めたプラクティスだから、それがボクにもたらした経験と同じものを、ボクが他の人達へもたらす能力は、自分には到底あるとは思えなかったんだ。

これらの疑惑は根拠のないものだと証明されたけど、それはボクがこの経験を伝えることができないからではなく、ボクの仕事は「経験を引き渡す」ことではないんだと気がついたからなんだ。

ティム・ミラーのプロフィールの中に、「私の指導者としての仕事は、生徒のプラクティスへの情熱を喚起することだけ。首尾一貫して正確に行われるプラクティスこそが、真の教師なのだ。」という、ボクが過去5年以上に渡って無断借用している一節があって、ボクは常にこの言葉に立ち返るようにしているんだ。

この視点からすると、アシュタンガを教えるということはシンプルだよね。だって、ボクがすべきことは、いわゆる「その道」から抜け出すことだけなんだから。

「経験」というものは、常に必然的に終わりを迎えるよね。たとえばヨガだって、クラスを終えてスタジオを去るやいなや、それらは一旦終了し、単なるひとつの経験として分類され、自分の中にファイリングされていってしまう。そこには、始まりがあって、最中の部分があって、そして終了し、記憶となっていくんだ。

これは、インドのマイソール体験と似たところがあるんだよね。だれもが、そこへ行き、ワイルドになって、本当に「覚醒」という経験をすることができるんだけど、その素晴らしい時間も、やがては「覚醒の経験」として、義務的に事務的に自分の中にファイリングされていくんだ。その後、普段の生活に戻っても、「あのときの経験」の焼き直しを常に試みてしまう。あたかも「あの経験」がプラクティスの試金石かのように、自分自身に対して、そして生徒に対して、追体験しようとする。昨年のマイソール経験こそが、自分の生徒達が目指すべきものだ、といった偏狭な考えすら生み出してしまったりもする。そして次回のマイソール詣までの期間を、実に不安な気持ちで待ちわびてるんだ。

別にマイソールへ行かないほうが良いとか、再訪する必要はないって忠告してるわけじゃないよ。ただ、ボク達のリアルな現実の状況について、「実際はこうである」よりも、「こうあってほしい」というのが先に立つような、間違った考えに囚われた理想主義に気づいた方がいいんじゃない?ってこと。

前にも言ったけど、経験というものはホント「来ては去り」なんだ。それこそが、条件付き現実の素晴らしいトコでさ、こういう状況や条件は発生し、維持され、朽ちて、他の状況へと進化していくんだから。状況や条件を自分自身と同一視するのを止めるために、そして、いまのこの瞬間の様々な状況や条件に対して、自然にクリエイティブに反応できるように、アシュタンガヨガという、このプラクティスはボク達をキレイに掃除してくれてるんじゃないかな。

ともあれ、自分のヨガ指導者としての価値についてウザいほどの疑惑が、いったん自分の中で、意識され、指摘され、認識されるや否や、なんらかの形の写真は必須であることが明らかになってきた。このヨガを教えることについては超マジメに取り組んでいたボクは、最も知的で巧みな態度で挑みたかったから、それがヨガ写真を撮ることであるのなら、よし、じゃ、そうしよっか、ってことで。

さて、ヨガ写真を撮影するとなると、たくさんの懸念事項が生まれてきた。まず、デジタルメディアの性質として、写真というものは、いつでもどこでも見ることができる。つまり、人々がその写真を見るときは、どんな言葉も注釈もつけることができない。

次に、実際の写真の内容は、ちょっとやっかいなんだ。超アドバンスの仰天ポーズを実演してみせるのか、親しみのあるポーズにするのか。自分をシリアスで深遠に見せたいのか、快活で人間味溢れたイメージでいくのか。

そして、もちろん、何を着るのかも考えなきゃならないんだよ、普段の練習では、ピチピチのブリーフ一丁の裸族なボクたちなのに。

それから、どんなセッティングで撮るのか?ヨガスタジオ?アウトドアでいくか?外国っぽいエキゾチックな場所とか?

ほかにも、これまでに考えたことがないほどの、いろんなアレコレが出てきてさ、いったい他のヨガ指導者たちは、とくに超多忙で省エネモードな方々の場合、ヨガ写真を撮るのに、どのくらいエネルギーを割り当てられるのか、ちょっと興味が沸いたりもしたよ。

もちろんボクにとっては、素晴らしくて、美しくて、そうありたいと望むような、本当の写真を撮るためだったら、どれだけ時間がかかろうが構わないんだけどね。

たとえばさ、このステキな写真はデーナ・キングスバーグのカシャパーサナというポーズ写真なんだけど、有名なあの絵をイメージしているよね。


 それから、エディ・スターンのスタジオのウエブサイトを知ってる?http://ayny.org/ すごい単調に見えるでしょ?なぜなら彼はまったく写真にエネルギーを注がないことに徹しているからなんだ。

最近のボクのヨガ写真は、友人のケリーに撮ったもので、彼はボクがプラクティスの中で大切にしていることを反映するよう心を砕いてくれたんだ。ちっとも怖くないポーズだし、後ろににはグルジの写真があって、背景の色も大好きなんだ。すごくいい感じだよ。

 あ、そうそう、この写真には、ボクのフルーツバスケットは写ってない、ってことは言っとかなきゃね。



MY LEAST FAVORITE POSE by Jason Stein

2012年12月に秋谷ヨガハウスでワークショップを開催したジェイソン先生のブログ LEAPING LANKA

軽妙な口調とシニカルな視線が印象的ながらも、奥に秘められた少年のような純粋な輝きがとても魅力的で、ぜひ皆さんにご一読していただきたいのですが、英語の壁が高くて・・・という方のために、ジェイソン先生の承諾を得て、いくつか翻訳をしてみました。よかったらぜひどうぞ。

 

MY LEAST FAVORITE POSE (July 30, 2010)
苦手で嫌いなポーズ (2010/7/30)

http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/07/my-least-favorite-pose.html


 きっと誰もが、死ぬほど怖いポーズが1つはあると思うんだけど、どうだろう?もし「そんなことないよ」って人がいたら、多分アシュタンガは向いてないんじゃないかな。

ボクは昔、バッダコナーサナが本当に怖かったんだ。

まず、このポーズは、超痛い。それも半端なく。膝を床に下ろせない、前屈なんてできない、というか、まっすぐ座ることすら無理、ってくらいで。それでも、毎日毎日このポーズが目の前にやってくるんだから、たまったもんじゃないよ。

で、なんとかしようと思って、毎朝自宅では、ホームセンターで買った袋に海岸の砂を詰めて作ったサンドバックを、片方ずつの足に乗っけて、コーヒーを飲みながらCNNニュースを見ていたほどなんだから。

だけど今は、このポーズが結構好きだったりするんだ・・・さて、なにが起きたのかって?

そこには、”こうあるべき”と思っていたものと、実際に自分が”ここにある”現実との間に、まるで盲点のような大きな溝があったんだ。そしてボクの恐れる気持ちは、まさにこの、決して繋がることのない、相反するもの同士の、永遠の対立のようなギャップから生まれてきたんだ、って気づかされた。

果たしてボクが渇望して止まなかったのは、感情や肉体で経験する爽快感や、すべてを解放するような感覚といった、ドラマチックな打ち上げ花火みたいなものだったのだろうか?いや、そんなものは決してやってこなかった。ボクにとってバッダコナーサナは、ゆっくりと3年くらいの時間をかけて、少しずつだけど確実に研磨していくような、そんなプロセスだった。いつの間にか、呼吸ができるようになって、前屈ができるようになって・・・って、そんな日がやってくる。ボクはこのポーズで、自分の呼吸、背骨、おしり、お腹やおへそ、そして上前歯につけた舌とかに、まるで没頭するように深く沈んでいき、呼吸が、自分の胸の中で、大きく膨らみ、静かにしぼんでゆくのを感じるようになったんだ。

アシュタンガヨガにおいて、皆がそうであるように、決して完璧ではないポーズのシーケンス、その不完全さを実践するという、美しき限界。そこには、ボク達の”こうあるべき”と思う固定条件と、実際に自分が”こうである”という流動的な状態との間に軋轢を起こさせるような次のポーズが、常に待ち受けているんだよね。

恐れや不安というものは、単なる副産物でしかないし、避けることはできるから安心していいと思うよ。どんな恐怖に巻き込まれようが、このアシュタンガヨガという肉体を使ったシンプルで実際的なテクニックは、僕達をここに、この単純な吸う息と吐く息の、生命の源に戻してくれるんだから。

ボクにとって、忌々しくも啓示的な苦手ポーズとの経験は、バッダコナーサナに始まり、バックベンド、バックベンドからのカムアップ、ベカーサナ、カポターサナ・・・と、次から次へと予想通り続いてていった。そして時が経つにつれ、このような軋轢が経験できる機会に、強く感謝するようになった。いまでもボクは、呼吸とバンダと共にありながら、プロセスが生起するにまかせられるよう、とても慎重に毎日の練習に従事しているんだ。

 さて、バッダコナーサナの後は、カポターサナ地獄を経験することになったんだけど、心に刻み込まれた固定的なイメージで作り出した、あまりに厳格で不可能なポーズの理想完成形に向かって、無闇に努力してたら破綻しちゃうよね。ちょっと繊細に傷つく程度なら、まぁ多分、美しいのかもしれないけど、筋肉や靭帯を捻挫とか断裂させるほどの肉体的な破壊となると、それはヨガじゃないと思う。

もちろん、一所懸命にやることは大切だよ。努力する目標を持つことも重要。毎朝ちゃんとマットの上に姿を現してベストを尽くすのも大切。背中を押してもらうことも大事だし、あえて一歩引くことも大事。

でも、インドのマイソールのシャラで体験した「セカンドレッドクラス」と同じものを、普段の練習のときに再現しようとすることは、まず不可能だし、自分自身にとって不誠実なことだと思う。だって、そう望むこと自体が、その瞬間におかれたリアリティを無視してる、ってことなんだからさ。ボクにはそれがよくわかる、だって実際ボク自身、そんなことやってきたからね。

グルジとティム、-彼らは共にボクにとっての永遠の指導者で、ボクの呼吸ひとつひとつの根源であるのだけど-、毎朝、彼らへ蝋燭の光を灯しながら練習をする間ボクは、このマットを離れてもグルジという光を常に宿らせていけるよう、懸命に努力しているんだ。

グルジはとても厳格で容赦なく、多くのものを要求し、生徒達が一生懸命精進するように求めていた。でも、グルジが本当に教えてくれたのは、インドのマイソールシャラでの練習を終えて自分の普通の生活に戻ったときにこそ、僕達は生きた練習をしていくんだ、ってことなんじゃないかな、って、ボクはそう思っている。

これは、マイソールで献身的に身を捧げたグルジとの経験や思い出を再現することではないんだよね。「すべての場所で、すべてのものの中に、神を見なさい」とグルジはよく言ったものだけど、それは「いま」を見なさいという意味なんだ。決して、過去を振り返って、10年も前のグルジとの経験を見ることではないんだ。

このアシュタンガヨガの練習を続けていくうちに気づいたのは、自分自身の幻想や癖や傾向というのは、そんな簡単になくなりはしないってこと。でも、それが何なのか?ってことは見えてきた。一旦それを把握しちゃえば、結構たいしたとこなくなっちゃうんだよね。もしかしたら、ヨギの技術というのは、傾向や癖を巧妙に操作しながら楽しみ、幻想をもすら分かち合うためのギフトなんだと気づくことなのかもしれない。




ところで、インドで4ヶ月を過ごした後に、当時住んでいたエンシニタスのスタジオへ戻ったときのこと。ティム先生がいつものように、バッダコナーサナでボクにアジャストをしようと乗りかかったとき、ボクの変化を見て取ったのか、肩をすくめて、「もう私は必要じゃないみたいだね」と言いながら、その場を離れていったんだ。

もちろん、その後も、ベカーサナ、カポターサナ、ガンダベルンダーサナ、スプタトリヴィクラマーサナ、ラージャカポターサナ・・・と、決して終わることはなかったのだけど。

というか、ボクは、終わってほしくないな、って思うんだ。