2016年1月9日土曜日

Reflections on Practice by Paul Dallaghan

プラナヤマのティワリジ、アシュタンガのグルジ(パタビ・ジョイス)に師事した、プラクティショナーPaul Dallaghan の動画をご紹介します。


単なる表面的なポーズや動きの美しさなら、もっと若くて身体能力に長けた人達のパフォーマンスを鑑賞すればいいのですが、長い経験に裏打ちされた、プラクティスにおける自身の「在り方」の深みを感じられる動画は、まだまだ少ないです。

このPaul Dallaghanの動画は、肉体的ピークは過ぎたであろう彼自身の等身大のプラクティスと、その長い経験から得た洞察をシンプルに字幕で表現されていて、プラクティスというのは、パフォーマンスではないのだな、と感じさせてくれる秀作。

わかりやすくて、ゆっくりな英語字幕ですので、ぜひご覧ください。また、一部を日本語訳しましたので、載せておきますね。




   
    私はいまでもまだ、このプラクティスが大好きです
    始めたばかりの規則ずくめの頃から現在に至るまで
    純粋な好奇心と、献身と、愛情をもって
    1日たりとも休んだことはありません

    プラクティスは次第に
    クリアな明晰さと至福に満ちた成熟へと変容していきますが
    それは推測や憶測や空虚な言葉によってではなく
    プラクティスの実践を継続することによって可能となります

    様々な経験を通り抜けていくためには
    時間をかけての継続が必要です
    とても長い期間です

    プラクティスは私を変えました
    より良き状態へと

    プラクティスはあなた自身に働きかけます
    自分自身を見つめ
    自分の習慣や、エゴや我儘さ、傲慢や偏見
    そして執着や恐怖と、向き合うことになります

    プラクティスには目的があるのです
    無意識の習慣である自分の行動や思考のパターンを
    あなた自身が解き放つための手助けとなってくれるのです

    そう、自由になるために

    もちろんそれは簡単なことではないけれど
    でも試してみる価値はあります

    あなたは、人生のすべてのものを有難く感謝していますか?
    あなたは、人生のすべてのものに価値を見出していますか?
    あなたの身近にいる人々や、あるもの、を当たり前だと思うのは簡単です。
    あなたは、自分が直面している試練やチャレンジに、価値を見出していますか?
    さまざまな形をした、私たちの人生における学びを、深く慈しんでいますか?

    助けを求めましょう
    あなたが求めれば、それはやってきます

    誠実に、正直になれば、あなたのハートが語ります

    クリアな明晰さを求めましょう
    そうすれば、自分にとって本当は何が必要なのかが見えてきます

    ガイドや導きを求めましょう
    その導きに従えるような、内面の強さを求めましょう

    オープンになって、謙虚になって、助けを求めましょう

    単にポーズをするだけではなく
    アウェアネスをもってプラクティスをしましょう
    よく理解をしながらプラクティスをしましょう

    定期的に継続して行いましょう
    コツコツと勤勉に行いましょう

    「自分がいま何をしているのか」ということと
    しっかりつながりましょう
    しっかりと感じましょう
    その内部にしっかりと存在しましょう

    これらはつまり、あなたが自分自身との関係を築く、ということです
    プラクティスは、あなたに、あなた自身を届けてくれます
    あなたはもっと自分自身を理解するようになり
    もっと自分自身が心地よく感じられてきます

    ただし、それには、じっくりと長い期間をかけて行う必要があります

    あなた自身に働きかけるために、プラクティスをしましょう

    アサナをするときには、それを感じ取ってください
    自分の呼吸に寄り添いましょう
    なにも考える必要ありません
    あなたは、ただ、しっかりとそこに在ればいいのです
    そうすれば、おのずとあなたは、その中にいることでしょう
    それを感じ取ることでしょう

    あなたが何をしているのか、をしっかりと反映させましょう
    そうすることで、自分自身の理解が深まります
    よりよい理解とともにあることで
    あなたはプラクティスの中で、さらに進化していきます

    プラクティスはあなただけのものではなく
    あなたの先生や家族によって、常に変化を遂げています

    永遠の愛と感謝の気持ち
    あなたと、全ての人々が幸福で自由であるよう
    愛を感じましょう、喜びを経験しましょう
    プラクティスをしましょう

    私達が沢山のものを分かち合えるように
    プラクティスを行いましょう

IT’S OKAY TO WANT THE NEXT POSE by Jason Stein

本日(*注:2012年12月当時) より秋谷ヨガハウスで週末ワークショップ開催中のジェイソン先生。静かでナチュラルで、普通にカジュアルで、だけど物事の裏に潜む本質をしっかりと見据える何気ない姿勢に、参加している私達の心が動かされます。そんなジェイソン先生のブログの日本語訳第3弾です。

アシュタンガヨガのポーズは指導者から「もらう」もので、自ら次のポーズを欲しがってはいけない・・・という「決まりごと」の奥に隠された、私達の心の機微についての考察です。


IT’S OKAY TO WANT THE NEXT POSE
http://leapinglanka.blogspot.jp/2012/12/its-okay-to-want-next-pose.html




次のポーズを欲しがるのは、決して悪いことじゃない。

いや、悪くないどころか、それは普通に想定内というか、アシュタンガをマイソールスタイルで練習する以上、あたりまえに生まれる副産物みたいなものだと思う。

だってさ、マイソールクラスという空間でボク達は皆、他の大勢の人達と共に同じ場所で練習するんだけど、中にはフンワリと空を舞ったり、驚異的な動きやポーズをやってる人もいたりするわけで。

ギータに書かれているように、もし「ヨギとは、難しいことを容易に見せる術、すなわち行為におけるスキルを持つ者である」ならば、まるでデモンストレーションのようにフワリと浮かんだり、しなやかで柔らかにポーズをこなす、憧れのヨギ・ヨギーニのようになりたい、と誰もが思うんじゃないかな。だって、そういうポーズの習得こそが、ボク達が毎日、それも早朝に、ゆっくり眠るという人生の楽しみすら投げ打ってスタジオへ通う原動力みたいなものなんだから。

で、そのマイソールクラスという空間には、興味深いエネルギーのダイナミズムがあるんだよね。権威ある者の姿が、文字通り肉体的にキミの上にのしかかるように存在し、キミの努力に対して「次のポーズを与える」という形でご褒美をくれるんだけど、その承認の模様は、他の人達の目の前であからさまに行われるんだ。

こういうトコロから探究すべき心の豊かな機微や傾向が見えてきて、例えば、許可や承認やサポートを得るために、こんな風に誰かの顔を見上げたりしたのは、うんと昔の子供のころ両親に対して以来だな、って改めて感じたよ。

他にどんな先祖帰り的で、むき出しの感情がボクたちの中に潜んでいて、こんな風に思いを蘇らせたりするのかな?とか、気になるよね。

それに、アシュタンガヨガのシリーズ自体が直線的で前進的な構成になっていて、前のポーズは次の更に難しいポーズへの鍵を開ける役割を担っているのだから、次のポーズを欲しがる気持ちというのは、理にかなっているんじゃないかな。

「プライマリーシリーズがこんな風に感じさせるのだから、セカンドシリーズは一体どんな感じになるんだろう?パシャーサナでこんな感覚になるのなら、クラウンチアーサナはどうなんだろう?ドヴェイパダは簡単にできそうだけど、実際にはどうなんだろう?」
純粋な好奇心や不思議に思う気持ちは、多分こんな風に展開していくんじゃない?

これって、ごく自然なことだし、こう思うのは普通に想定内だよね。

だってさ、好奇心や不思議に思う気持ちは、解決すべき問題ではないし、癒すべき古傷でもなくて、ましてや克服すべきモノでもないんだから。

サンスクリット語で好奇心はスタイバーヴァ(潜在的に常に存在する基本的な感情)と呼ばれ、ラサ(風味・味、感情状態、美的陶酔)と、アドブタ(不思議・未曾有・めずらしいこと、びっくりすること)とヴィラ(英雄的な・真実に対して情熱的になること)と関連付けられて表現される、と定義されているのは興味深い観点だよね。

だとしたらさ、次のポーズを欲しがるような純粋な好奇心って、ひとつのギフトだと思うよ。

この好奇心は、自分自身を深く学ぶことになるし、練習をさらに継続的にしてくれる。そして先生との対話の手助けもなるだろうし、そしてなにより、何故ボクたちがヨガをしているのかを教えてくれるんじゃないかな。

    重要なのは疑問を持つことを止めないこと。好奇心はそれ自体に存在意義がある。永遠や人生や実在の驚くべき構造という神秘について熟考すれはするほど、畏敬の念を持たずにはいられない。この神秘について、少しでも理解を深めようと努力するだけで、それは充分なのだから、この神聖な好奇心は決して失ってはならない。(アインシュタイン)

THE AGONIES OF YOGA PHOTOS by Jason Stein

前回のジェイソン先生のブログ・その1が、ちょっとだけ反響あったので、第2弾も引き続き掲載させていただきます。

ユーモラスな中にも、シッカリとした芯があって、アシュタンガヨガを教える上で大切にしていること、理想主義に傾倒することへの警告、アシュタンガヨガのパワーについてなどなど、興味深い内容です。



THE AGONIES OF YOGA PHOTOS (Sept 3, 2010)
ヨガ写真にまつわる悩み (2010/09/03)

http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/09/agonies-of-yoga-photos.html



自分が練習をしている写真を見るまでは、「フルーツバスケット」という言葉には、まったく馴染みがなかった。

それは、ボクが東京にいた時のこと。ナイキの青いヨガパンツ(セール品)を買ったので、友人のクランティにカポターサナの写真を撮ってもらったんだ。自分でも、このポーズを実際に見てみたいな、と思っていたことだし。

で、どうだったかというと、この自分のカポターサナ写真を見て、初めて「フルーツバスケット」というものを意識したって次第。つまりね、小銭入れとか、豆の袋とか、宝石入れとか呼ばれている、いわゆる股間のモッコリとやらの、無駄に際立った膨らみが、青いスパンデックス素材でシュリンクをかけられたように包装されているさまを、その写真の中に見つけたんだ。



ま、このヨガ写真におけるボクの「フルーツバスケット」は、アシュタンガヨガを教えようかなぁ、と考え始めるキッカケでもなんでもないんだけどさ。というか、実際ボクがアシュタンガヨガを細々ながらも生業として教え始めていく過程は、実はずいぶんとゆっくりと時間をかけて、様々な変化が重なり合って、それらがいつの間にか、ひとつの方向へ向かって流れていった・・・そんな感じだったんだしね。

だけど、「このスタイルのヨガを教えるんだ」という種が、いったん自分の中に蒔かれてからというもの、本当に様々なやり方で水が与えられていったんだよ。自分の意図的な選択はもちろんのこと、妻や友人からの激励、昔の先生からのサポート、それから思いがけない幸運が何度もあったりと、非常に小さくて、あまり関係のなさそうな選択が、大きく積み重なって、蒔かれた種から芽が出て、花が咲き始めたんだ。

マイソールクラスを”教えて”いるときって、本当に活き活きとしてくるのを感じるよ。それはつまり、ボクがシェアされてきたものを、そのまま生徒達にシェアするって、ってことなんだよね。もちろん、果たしてそれが、21世紀の現在を生きる我々にとって、どのような意味を持ちえるのか?なんて壮大なことは、まったく判らないんだけどさ。

ダグラス・ブルックスによるヨギの定義に、「不可能なことをいとも簡単に見せる能力を持つ者」というのがあって、ボクはこれが結構気に入ってるんだ。不可能なことを努力してないように見せる能力、というのは、エネルギーをいかに効率的に管理運用するかって、ことなんだよね。

実際アシュタンガヨガの練習は、このエネルギー制御地図の探求へとボクを導いてくれたし。このプラクティスを介して、ボクたちは自身のエネルギーや、また自分を超えるエネルギーをも、浄化し、寄せ集め、そして方向づけたりしているんじゃないかな。

これはティム・ミラーから聞いたんだけど、グルジは「すべてのヨガスタジオはハヌマン神を祀るべきだ」と言っていたそうだよ。猿の姿をしたハヌマンは、空を飛び、風から生まれ、男性神ラーマと、その妻、女性神シータの再統合を導いたことで知られるよね。そう、ハヌマンは、まさにプラナのシンボルなんだ。グルジがティムへ伝えたかったのは、プラナのシンボルであるハヌマン神によって、外部のプラナ(エネルギー)が一番わかりやすいカタチに顕現化された「お金」がより良く流れる手助けをしてくれるだろう、ってこと。




ところでヨガを教え始めて、しばらくたつと、ヨガスタジオやジムやスポーツクラブなどから、サイトやチラシに掲載するための写真を依頼されるようになったんだ。

これは事件だったよ。まず、ボクの中の未熟な不安定さや、教えることへの恐怖といった感情を、浮き上がらせてくれた。自分を写真というカタチで提示することは、ブログを書いたりするよりも、ずっと深くて意味深長に思えた。

自分にはそれだけの価値があるんだろうか?本当に準備ができているのだろうか?こんな自分でも充分なんだろうか?シェアできる何かを実際に持ちあわせているのだろうか?技術と共に伝えていけるほど、本当に「このヨガ」を理解しているのだろうか?・・・といった感じで、「教える」という選択と、しっかりと向き合うように、仕向けてくれた。

アシュタンガヨガは、あまりにパワフルで大きな可能性を秘めたプラクティスだから、それがボクにもたらした経験と同じものを、ボクが他の人達へもたらす能力は、自分には到底あるとは思えなかったんだ。

これらの疑惑は根拠のないものだと証明されたけど、それはボクがこの経験を伝えることができないからではなく、ボクの仕事は「経験を引き渡す」ことではないんだと気がついたからなんだ。

ティム・ミラーのプロフィールの中に、「私の指導者としての仕事は、生徒のプラクティスへの情熱を喚起することだけ。首尾一貫して正確に行われるプラクティスこそが、真の教師なのだ。」という、ボクが過去5年以上に渡って無断借用している一節があって、ボクは常にこの言葉に立ち返るようにしているんだ。

この視点からすると、アシュタンガを教えるということはシンプルだよね。だって、ボクがすべきことは、いわゆる「その道」から抜け出すことだけなんだから。

「経験」というものは、常に必然的に終わりを迎えるよね。たとえばヨガだって、クラスを終えてスタジオを去るやいなや、それらは一旦終了し、単なるひとつの経験として分類され、自分の中にファイリングされていってしまう。そこには、始まりがあって、最中の部分があって、そして終了し、記憶となっていくんだ。

これは、インドのマイソール体験と似たところがあるんだよね。だれもが、そこへ行き、ワイルドになって、本当に「覚醒」という経験をすることができるんだけど、その素晴らしい時間も、やがては「覚醒の経験」として、義務的に事務的に自分の中にファイリングされていくんだ。その後、普段の生活に戻っても、「あのときの経験」の焼き直しを常に試みてしまう。あたかも「あの経験」がプラクティスの試金石かのように、自分自身に対して、そして生徒に対して、追体験しようとする。昨年のマイソール経験こそが、自分の生徒達が目指すべきものだ、といった偏狭な考えすら生み出してしまったりもする。そして次回のマイソール詣までの期間を、実に不安な気持ちで待ちわびてるんだ。

別にマイソールへ行かないほうが良いとか、再訪する必要はないって忠告してるわけじゃないよ。ただ、ボク達のリアルな現実の状況について、「実際はこうである」よりも、「こうあってほしい」というのが先に立つような、間違った考えに囚われた理想主義に気づいた方がいいんじゃない?ってこと。

前にも言ったけど、経験というものはホント「来ては去り」なんだ。それこそが、条件付き現実の素晴らしいトコでさ、こういう状況や条件は発生し、維持され、朽ちて、他の状況へと進化していくんだから。状況や条件を自分自身と同一視するのを止めるために、そして、いまのこの瞬間の様々な状況や条件に対して、自然にクリエイティブに反応できるように、アシュタンガヨガという、このプラクティスはボク達をキレイに掃除してくれてるんじゃないかな。

ともあれ、自分のヨガ指導者としての価値についてウザいほどの疑惑が、いったん自分の中で、意識され、指摘され、認識されるや否や、なんらかの形の写真は必須であることが明らかになってきた。このヨガを教えることについては超マジメに取り組んでいたボクは、最も知的で巧みな態度で挑みたかったから、それがヨガ写真を撮ることであるのなら、よし、じゃ、そうしよっか、ってことで。

さて、ヨガ写真を撮影するとなると、たくさんの懸念事項が生まれてきた。まず、デジタルメディアの性質として、写真というものは、いつでもどこでも見ることができる。つまり、人々がその写真を見るときは、どんな言葉も注釈もつけることができない。

次に、実際の写真の内容は、ちょっとやっかいなんだ。超アドバンスの仰天ポーズを実演してみせるのか、親しみのあるポーズにするのか。自分をシリアスで深遠に見せたいのか、快活で人間味溢れたイメージでいくのか。

そして、もちろん、何を着るのかも考えなきゃならないんだよ、普段の練習では、ピチピチのブリーフ一丁の裸族なボクたちなのに。

それから、どんなセッティングで撮るのか?ヨガスタジオ?アウトドアでいくか?外国っぽいエキゾチックな場所とか?

ほかにも、これまでに考えたことがないほどの、いろんなアレコレが出てきてさ、いったい他のヨガ指導者たちは、とくに超多忙で省エネモードな方々の場合、ヨガ写真を撮るのに、どのくらいエネルギーを割り当てられるのか、ちょっと興味が沸いたりもしたよ。

もちろんボクにとっては、素晴らしくて、美しくて、そうありたいと望むような、本当の写真を撮るためだったら、どれだけ時間がかかろうが構わないんだけどね。

たとえばさ、このステキな写真はデーナ・キングスバーグのカシャパーサナというポーズ写真なんだけど、有名なあの絵をイメージしているよね。


 それから、エディ・スターンのスタジオのウエブサイトを知ってる?http://ayny.org/ すごい単調に見えるでしょ?なぜなら彼はまったく写真にエネルギーを注がないことに徹しているからなんだ。

最近のボクのヨガ写真は、友人のケリーに撮ったもので、彼はボクがプラクティスの中で大切にしていることを反映するよう心を砕いてくれたんだ。ちっとも怖くないポーズだし、後ろににはグルジの写真があって、背景の色も大好きなんだ。すごくいい感じだよ。

 あ、そうそう、この写真には、ボクのフルーツバスケットは写ってない、ってことは言っとかなきゃね。



MY LEAST FAVORITE POSE by Jason Stein

2012年12月に秋谷ヨガハウスでワークショップを開催したジェイソン先生のブログ LEAPING LANKA

軽妙な口調とシニカルな視線が印象的ながらも、奥に秘められた少年のような純粋な輝きがとても魅力的で、ぜひ皆さんにご一読していただきたいのですが、英語の壁が高くて・・・という方のために、ジェイソン先生の承諾を得て、いくつか翻訳をしてみました。よかったらぜひどうぞ。

 

MY LEAST FAVORITE POSE (July 30, 2010)
苦手で嫌いなポーズ (2010/7/30)

http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/07/my-least-favorite-pose.html


 きっと誰もが、死ぬほど怖いポーズが1つはあると思うんだけど、どうだろう?もし「そんなことないよ」って人がいたら、多分アシュタンガは向いてないんじゃないかな。

ボクは昔、バッダコナーサナが本当に怖かったんだ。

まず、このポーズは、超痛い。それも半端なく。膝を床に下ろせない、前屈なんてできない、というか、まっすぐ座ることすら無理、ってくらいで。それでも、毎日毎日このポーズが目の前にやってくるんだから、たまったもんじゃないよ。

で、なんとかしようと思って、毎朝自宅では、ホームセンターで買った袋に海岸の砂を詰めて作ったサンドバックを、片方ずつの足に乗っけて、コーヒーを飲みながらCNNニュースを見ていたほどなんだから。

だけど今は、このポーズが結構好きだったりするんだ・・・さて、なにが起きたのかって?

そこには、”こうあるべき”と思っていたものと、実際に自分が”ここにある”現実との間に、まるで盲点のような大きな溝があったんだ。そしてボクの恐れる気持ちは、まさにこの、決して繋がることのない、相反するもの同士の、永遠の対立のようなギャップから生まれてきたんだ、って気づかされた。

果たしてボクが渇望して止まなかったのは、感情や肉体で経験する爽快感や、すべてを解放するような感覚といった、ドラマチックな打ち上げ花火みたいなものだったのだろうか?いや、そんなものは決してやってこなかった。ボクにとってバッダコナーサナは、ゆっくりと3年くらいの時間をかけて、少しずつだけど確実に研磨していくような、そんなプロセスだった。いつの間にか、呼吸ができるようになって、前屈ができるようになって・・・って、そんな日がやってくる。ボクはこのポーズで、自分の呼吸、背骨、おしり、お腹やおへそ、そして上前歯につけた舌とかに、まるで没頭するように深く沈んでいき、呼吸が、自分の胸の中で、大きく膨らみ、静かにしぼんでゆくのを感じるようになったんだ。

アシュタンガヨガにおいて、皆がそうであるように、決して完璧ではないポーズのシーケンス、その不完全さを実践するという、美しき限界。そこには、ボク達の”こうあるべき”と思う固定条件と、実際に自分が”こうである”という流動的な状態との間に軋轢を起こさせるような次のポーズが、常に待ち受けているんだよね。

恐れや不安というものは、単なる副産物でしかないし、避けることはできるから安心していいと思うよ。どんな恐怖に巻き込まれようが、このアシュタンガヨガという肉体を使ったシンプルで実際的なテクニックは、僕達をここに、この単純な吸う息と吐く息の、生命の源に戻してくれるんだから。

ボクにとって、忌々しくも啓示的な苦手ポーズとの経験は、バッダコナーサナに始まり、バックベンド、バックベンドからのカムアップ、ベカーサナ、カポターサナ・・・と、次から次へと予想通り続いてていった。そして時が経つにつれ、このような軋轢が経験できる機会に、強く感謝するようになった。いまでもボクは、呼吸とバンダと共にありながら、プロセスが生起するにまかせられるよう、とても慎重に毎日の練習に従事しているんだ。

 さて、バッダコナーサナの後は、カポターサナ地獄を経験することになったんだけど、心に刻み込まれた固定的なイメージで作り出した、あまりに厳格で不可能なポーズの理想完成形に向かって、無闇に努力してたら破綻しちゃうよね。ちょっと繊細に傷つく程度なら、まぁ多分、美しいのかもしれないけど、筋肉や靭帯を捻挫とか断裂させるほどの肉体的な破壊となると、それはヨガじゃないと思う。

もちろん、一所懸命にやることは大切だよ。努力する目標を持つことも重要。毎朝ちゃんとマットの上に姿を現してベストを尽くすのも大切。背中を押してもらうことも大事だし、あえて一歩引くことも大事。

でも、インドのマイソールのシャラで体験した「セカンドレッドクラス」と同じものを、普段の練習のときに再現しようとすることは、まず不可能だし、自分自身にとって不誠実なことだと思う。だって、そう望むこと自体が、その瞬間におかれたリアリティを無視してる、ってことなんだからさ。ボクにはそれがよくわかる、だって実際ボク自身、そんなことやってきたからね。

グルジとティム、-彼らは共にボクにとっての永遠の指導者で、ボクの呼吸ひとつひとつの根源であるのだけど-、毎朝、彼らへ蝋燭の光を灯しながら練習をする間ボクは、このマットを離れてもグルジという光を常に宿らせていけるよう、懸命に努力しているんだ。

グルジはとても厳格で容赦なく、多くのものを要求し、生徒達が一生懸命精進するように求めていた。でも、グルジが本当に教えてくれたのは、インドのマイソールシャラでの練習を終えて自分の普通の生活に戻ったときにこそ、僕達は生きた練習をしていくんだ、ってことなんじゃないかな、って、ボクはそう思っている。

これは、マイソールで献身的に身を捧げたグルジとの経験や思い出を再現することではないんだよね。「すべての場所で、すべてのものの中に、神を見なさい」とグルジはよく言ったものだけど、それは「いま」を見なさいという意味なんだ。決して、過去を振り返って、10年も前のグルジとの経験を見ることではないんだ。

このアシュタンガヨガの練習を続けていくうちに気づいたのは、自分自身の幻想や癖や傾向というのは、そんな簡単になくなりはしないってこと。でも、それが何なのか?ってことは見えてきた。一旦それを把握しちゃえば、結構たいしたとこなくなっちゃうんだよね。もしかしたら、ヨギの技術というのは、傾向や癖を巧妙に操作しながら楽しみ、幻想をもすら分かち合うためのギフトなんだと気づくことなのかもしれない。




ところで、インドで4ヶ月を過ごした後に、当時住んでいたエンシニタスのスタジオへ戻ったときのこと。ティム先生がいつものように、バッダコナーサナでボクにアジャストをしようと乗りかかったとき、ボクの変化を見て取ったのか、肩をすくめて、「もう私は必要じゃないみたいだね」と言いながら、その場を離れていったんだ。

もちろん、その後も、ベカーサナ、カポターサナ、ガンダベルンダーサナ、スプタトリヴィクラマーサナ、ラージャカポターサナ・・・と、決して終わることはなかったのだけど。

というか、ボクは、終わってほしくないな、って思うんだ。

2015年12月3日木曜日

Saraswathi


故グルジの娘であるサラスワティは10歳からヨガを学び、妻として母として女性として、そして指導者として長い歴史を歩んできています。そんなサラスワティだからこその暖かい慈愛に満ちた、アシュタンガヨガのプラクティスについての言葉です。

オリジナルはココ
http://www.saraswathiashtanga.com/insights.html



Insight by Saraswathi
   



Don’t hurry, this practice take time, the more you try to rush it, the more you will miss what it is actually about…. Everything has its own time.
決して急がないでください。アシュタンガヨガは時間のかかるプラクティスです。先を急ごうとすればするほど、このプラクティス本来の意義から遠ざかってしまいます。すべてのものには、それぞれに必要な時間というものがあります。

Let everything come in it’s own time. A plant and tree needs proper time to grow under right conditions, why should we human beings be any different. To grow into yoga means growing into life, proper conditions need to be there, but when start to feel it; you’ll come to know it is real.
あらゆるものが、その時に、自然と発生するのを待ちましょう。草木が育つためには、しかるべき環境の下、適切な時間を必要とします。なぜ私たち人間が、そうでないと言えるでしょう?ヨガと共に成長するということは、人生の中を生きるということです。そこには適切な条件が必要ですが、一旦感じとることができれば、それこそが真実であると知るのに時間はかかりません。

Don’t look for God or the Goddess outside of you. Learn to listen from within and explore a new energy within you.
自分の外側に神や女神を求めないように。自分の内からの声に耳を傾け、そして自分の内に生起する新たなエネルギーを探求することを学んでください。

A stiff body has a good potential for learning Yoga. A flexible body is usually more caught up in Bhoga.
硬い身体はヨガを学ぶ素晴らしい可能性を秘めています。柔らかい身体は大抵感覚的な享楽に囚われがちです。

Let life guide you by listening to your own heart.
ハートの声を聞くことで、人生自体があなたを導くに任せてみましょう。

On being a mother: “It took me ten years to learn the asanas well, then two children to forget about it, but the Yogic experience I got from that was more than any asana could ever give me.”
母であること:アサナを習得するのに10年かかりました。そして2人の子供が生まれ、それらすべてを忘れることになりました。そこから得た私のヨガ的経験は、どんなアサナも決して与えうることのできない貴重なものです。

feminine perspective:Through the various stages of life, yoga practice naturally changes it’s form and becomes much more than just an asana. Being a woman. mother and householder with important responsibilities, our energy is redirected at times and our yoga practice gives us the courage to embrace change.
女性の視点:人生の様々な段階において、自然とヨガの練習形式は変わっていき、次第に単なるポーズだけではなくなってきます。女性として、母として、そして家庭を守るものとして、重要な責任を負い、その都度私達のエネルギーは方向を変えてゆき、ヨガの練習によって私達は、変化を抱擁する勇気を授かります。

【当サイト内に掲載されている日本語訳文の無断転載、転用を禁止します】

2015年12月2日水曜日

Great Courage, Mighty Enthusiasm, and Full Strength by David Garrigues

米国フィラデルフィアのシニアティチャー、デヴィッド・ガリゲス氏の2010年のエッセイです。

オリジナルはコチラ
http://davidgarrigues.com/blog/?p=488


Great Courage, Mighty Enthusiasm, and Full Strength
類まれなる勇気、万能の熱意、そして最大限の強さ

 


20余年にわたるヨガの学びの中で私は、様々な環境下における練習の、その喜びとチャレンジを経験してきました。

たとえばコロラドのボルダーにあるシャトークア公園では、凍てつく冬の夜明け前に、帽子や手袋も含めた完全防寒のいでたちで、神妙に厳かに練習をしたものです。

また一方インドのマイソールでは、グルジのオールドシャラの後方右角に”マイスポット=特等席”があり、そこで私は、丸一年間毎日通ってサードシリーズを学びました。

さらに最近では、プライマリーシリーズのDVD撮影の舞台となった南インドの寺院で、とても神秘的なセンタリングを体験するようなプラクティスをしました。

今回お伝えしたいのは、最近の私のゲットーのような場所での日々の練習と、そのかんばしくない練習場所がどのようにして、素晴らしい価値をもたらすようになったのか、というお話です。

私は現在フィラデルフィアのスラム街にある、今にも崩れ落ちそうな茶色いレンガのボロ家に、3人の同居人と2匹の猫と共に住んでいて、2つあるメインの居間には溢れんばかりの楽器と録音機材でいっぱいです。私の住宅環境はまさに、十分な空間に欠けており、実際どの部屋にもマット1枚敷く余裕すらありません。

しかしながら、もし時間さえ合えば、この家でたった一カ所だけマットをひくスペースが、ちょうど玄関を入った所にあるのです。薄いカーペットの床はとても清潔とは言い難く、入口のドアと両隣りの壁と床の換気口がある部分までの間に、ほんとうにちょうど私のマットがギリギリ敷けるだけのスペースではあるのですが。

私はここで、夜明け前に起きて練習をしなければなりません。この時間ならば、他の住人は皆まだ眠っていて、マットの上を横切って家の出入りをする交通状況が避けることができるからです。朝3時から6時にかけては、Brahma Muhurtaと呼ばれ、練習に最も適した時間帯でもあります。

この宇宙的特等独占席での練習で、シッティングポーズにさしかかると、ビンテージ物の録音機材の後側に自然と目がいきます。この大きな木製ボックスの下のほうには古いステッカーが貼られていて、そこにはこう書かれています。

「ただ学び、愛し、そして成長することが全てだったころ」

私はついこの小さなステッカーに気が向いてしまい、禅問答のような好奇心で、あれこれ思案したり、首をかしげたり、噛み砕いて理解しようとしたりします。私はそれがまるで、夢の中の暗号化されたメッセージのように感じるのです。どんな経験に対しても否定的になってしまう私の一部、私のエゴへ向けて発せられる、私の内の奥底からのメッセージのように。

多くの知られざる才能と創造力に溢れた素晴らしい人々が、自分自身のネガティヴな側面に屈服したとき、彼らは内なる天賦の才から遠く離れてしまったり、または間違った方向へ進んでしまい、結果的に挫折したり、諦めて辞めてしまうことになるのを沢山見てきました。ジャック・ケルアックは伝説的な小説「ダルマ行者」の中でこう言います。

「私はかつて、とても献身的に信仰へ身を捧げる修行の日々を過ごし、それは完璧といえるくらいでした。しかしその後、次第に私の言葉は偽善に満ち始め、少しずつ疲れてきて、やがて皮肉的になっていったのです。何故なら、もう私はずいぶんと歳をとってしまったし、日和見的になってしまったからです。それでも私はかつて、慈善や優しさや謙虚さや熱意や静謐さや智慧や至福の中の真実を、本当に心から信じていたし、自分自身のことを、現代の服をきて世界を彷徨う昔の和尚だったのだと、そう思っていたのです。」

これはずいぶんと悲劇的な声明に聞こえますが、その実、私達の誰もが同じことを感じているはずです。私達はいつでも、簡単に疲れ果ててしまうし、“歳をとりすぎて、中立的に”ならざるを得なくなるし、そして致命的に皮肉っぽくなってしまいます。

これはまさに私達の生活そのものが、いかようにして私達を気落ちさせ、辛らつになる理由を与え、創造や成長や変革や生まれ変わる努力を諦めさせたり、止めさせたりしてしまうのか、を表しています。その果てに、森羅万象の神性や智慧、至福、私達の内にある象徴的な命を否定し、聖なるものが創造される根源、大いなる存在の意識(コンシャスネス)の光の導きに対して、絶対的な”No”を突きつけるようになるのです。

私自身もケルアック同様、若い頃は今よりももっと純粋無垢でした。ひたむきに前向きであることが自然であたりまえだったころ、私はもっと瑞々しい熱意に溢れており、いまより喜びに満ちた人生を謳歌していて、スピリチュアルな冒険に対して何の疑問も抱かず、とても楽観的に生きていました。

しかしいつの間にか心の中でとある声が聞こえ始め、その否定的な声は、思いやりや愛に満ちた反応や行動を攻撃し始め、自分の純粋な部分が次第に荒んでいってしまうのでした。そしてこの疲れ果てた態度によって、周囲の人や物事に不平不満を持ったり、愚痴ったりするようになり、怒りや無関心、批判、嫉妬、自分への不信、悲観、孤独がもたらされるようになったのです。

このように自分のスピリット(魂)から遠く離れてしまうと、絶え間ないネガティブさからくる苦しみ、自殺、ドラッグ乱用、過度の肥満、ショッピング中毒、無気力、鈍磨したシニシズムなどを引き起こしてしまします。

私達の多くはスピリチュアルな次元で大切な部分が隠蔽されています。私達のほとんどが疲れ果てて荒んでいます。決定的な突破口を通り抜けるだけの勇気と情熱を持って、自身の内に秘められた真の意義を知るために探求することを恐れています。人々とビジョンを分かち合う術を学ぶことすら、怖いのです。

いったいどのくらいの私達が、本当に心の底から何かを行っているでしょうか?我々を越える大いなる存在の一部として、何かを創り上げ、その価値を与えられ分かち合うことを、果たして行っているでしょうか?

その目は開いているが、心が閉ざされている人々が沢山いる
彼らは一体なにを見ているのか?
単なる“matter-事象”だけを見ているに過ぎない

このルーミーの詩は、私たちのハートを開くためには、事象を超えたものを見なければならない、と指摘しています。すなわち理性や目に写る部分を越え、事象の経験を私自身にとって意義あるものとして変換できるようにしなければならない、と。外側の世界における経験、すなわち事象の経験は、サインを送り、メッセージを伝え、内への道を、スピリチュアルな道程を指し示すような、私自身にとって象徴的なものです。

ケルアックが失ってしまったと感じている、“慈善や優しさや謙虚さや熱意や静謐さや智慧や至福”を信じ続けるために、私はヨガのプラクティスをします。毎日のプラクティスひとつひとつが重要な鍵を持っており、“生きて、愛して、成長する”ことを心から感じ表現するために、日々新たに生まれ変わる可能性を与えてくれます。

プラクティスは本質的で不可欠なものです。挑戦しなければならない状況に置かれたときに、直接的に意識していなくても、私がそこで見ているのは単なる”事象“でしかないことがしばしばあり、そんな時私はハートを閉ざしていて、事象を超えたその本質へアクセスすることができなくなっているからです。

これこそが、私がサーダナ(スピリチュアルなプラクティス)と関わる必要がある理由なのです。私のもうひとつの目を開き、スピリットやハートといった、物事の“事象”を越えた本質を本当に見据える必要があるのです。

先のルーミーの詩の後半は、こう続きます

もしあなたが光に満ちた恋人ではないのなら
(もしあなたが単なる事象しか見ないのなら)
あなたの欲望の身体の強度を抑圧し
どれだけ食べるか、どれだけ眠るかを制限しなさい
(ヨガをしなさい)

現在の私の練習場所は最悪の環境です。寒いし、ゴチャゴチャと乱れているし、1日のうちほんの限られた時間しか使うことができません。だけど、私はこの場所が大好きです。朝4時に、静けさのなかで、ひとりきりで、練習するときを、ほんとうに愛おしく感じます。私の努力、汗、集中、全てを手放し身を任せるとき、それらが私を、否定的で皮肉的で不信に満ちて無気力な最悪の状態に陥ることから救ってくれるのです。

私がどこにマットを敷こうが、実は関係ありません。それはどんな場所でも構わないのです。ほとんどすべての可変的なものごとは、私がスリアAを始めるときにはその価値を一切失います。床が汚れていようが、壁紙がはがれていようが、集中と呼吸を嫌悪する私の中のグレムリンが邪魔をしようと、どうでもいいことなのです。

ヨガをすることで私は、現実の生活に対しても、内なる人生に対しても、”YES”を言い続けられるようになりました。物事の内側の意味、その意味が外側の世界でどのように生起されるのかを見ることができます。たとえそれが、私の古い反応パターンが、私の内なる人生に対して”No”と言い続けている最中であっても。

ヨガは私にパワーを与えてくれます。たとえハートを閉じてしまいたくなるときであっても、もっとオープンに愛を持って、生きていけるように。

ヨガをある程度の期間、内から外への自己変革が現れるくらいの期間続けていると、私達の中にある種の力が生まれてきます。その強さこそが、私達がどのような環境にいようが関係なく、自己を、全ての関係を、私達の世界を、癒し変容するための努力をしつづけていける原動力なのです。

“これらがすべてのヨギの中に見られる特性です
     類まれなる勇気
     万能の熱意
     そして最大限の強さ   - The Siva Samhita -



【当サイト内に掲載されている日本語訳文の無断転載、転用を禁止します】
【この日本語訳の掲載に関しては、David Garrigues ご本人の了承を得ております】

2015年12月1日火曜日

"The Box" by Norman Blair



英国のアシュタンガ・インヨガ講師ノーマン・ブレア氏による2011年のエッセイです。非常に示唆に富み、鋭い洞察に満ちた、しかし愛ある素晴らしい内容に感動し、日本語に訳させていただきました。

オリジナルはコチラ
 http://www.yogawithnorman.co.uk/space/1ff1de774005f8da13f42943881c655f/pdfs/The_box-an_ashtanga_journey.pdf 



Being Inside Looking Outside: An Ashtanga Story
箱の中から外側の世界を見る~アシュタンガヨガ物語
 

罠にかかったのか、それとも、これは自己変革なのか

アシュガンタヨガの練習はかれこれ15年以上になる。最初はレッドクラスから始めて、1999年よりサーティファイド・ティーチャーの下でマイソールスタイルの練習を始めた。つま先に手を届かせようと躍起になっていた頃から、ポーズとポーズの間を滑らかに繋げられるようになるまで、その道のりはまさに旅路のようであった。

私の興味を引いたのは、このアシュタンガヨガのプラクティスは、神経症を悪化させるのか、それとも軽減させるのだろうか、ということであった。我々はみな多かれ少なかれ、ある程度の神経症的傾向があり、誰もが不安や心配を抱えており、それはユングの言うところの「落ち着きがなく、漠然とした不安を抱えた、心理的な合併症」と表現した現代の病のようなものである。

これはヨガ哲学におけるクレーシャ、すなわち「マインドにおける苦しみ」と言い換えてもいいだろう。クレーシャに相反するのはメッタ(時にそれは「優しさ」と翻訳される)であるが、では、このアシュタンガヨガのプラクティスは、はたしてクレーシャを弱め、メッタを強める効果があるのだろうか?苦しみを滅し、優しさを育てるスペースが、そこには本当にあるのだろうか?

このような疑問を持たざるを得ない我々は、アシュタンガヨガの罠にはまってしまったのか、それとも、これは自己変革の一歩なのだろうか?


スピリチュアル・プラクティスへの変換

ともあれ、パタビジョイスの功績は、アシュタンガヨガというアスレチックな運動の延長をもってして、西洋における「失われた世界」に生きる我々を、インドや東洋の精神世界へと目を向けさせたことだろう。

しかしここで疑問が生まれてくる。アシュタンガヨガは果たして、人生の無意味さや終わりなき焦燥から、我々を解き放ってくれるのだろうか?アシュタンガヨガによって我々は、平安と洞察に満ちた場所へ、少しでも近づくことができるのだろうか?

この問いかけに、「もちろん」と答える人もいれば、「そんなことはない」と反論する人もいるだろう。我々はみなそれぞれが、別々の異なった物語を持ち、互いに独立した存在ゆえ、答えは違って当然だ。

ある人にとってアシュタンガヨガは、こころの明晰な静寂をもたらす「動く瞑想」であり、また別のある人にとっては、心身を酷使し必死にもがいて懸命にポーズの成功を目指すことで、「固執」という自身の古い習慣を、対象を変えながら繰り返しているに過ぎない。

「(アシュタンガヨガのような)ひとつのシステムをゆるぎなく修練すると、“とある何か”が、取り組まれることなく、解決することなく、とり残されることがあり、それはプラクティスの残滓とでもいうべく、無意識下におかれたあなたの人生の側面が、ほぼ間違いなく垣間見てとれるのである。」

とはリチャード・フリーマンの弁だが、どうやら我々には、この「道」を多元的にとらえる必要があるようだ。

恐らく問題となるべき事実は、アシュタンガヨガにハマる人々というのが、それを最も必要としない人々、いわゆる「タイプA=目的達成型」と呼ばれる性格の持ち主達である、ということなのかもしれない。


 
パーソナリティ

私達のほとんどがそうであるように、このタイプAという性格は、実はアシュタンガヨガの梯子という罠に非常にハマりやすい。つまり、ポーズをひとつひとつクリアしながら、梯子を一段一段上り詰めていくプラクティスを通して、なにかを求める強欲な心を、更に強固に育ててしまうのである。

アシュタンガはときに、主に敗者よりも勝者によって語られるような、厳しい仕事を割り当てる工事監督のような存在となりうる。とあるシニアティチャーは「だからこそ、こんなに素晴らしい結果が生まれるのだ」と語ったが(この発言を疑問に思う者も多いが)、その教義と厳格な頑固さの中で、どれだけの私達が傷つき、そして壊れていかなければならないのだろうか?

この教義と厳格さによって、「ジャンプして直接チャトランガに入れば肩を痛める」とか、「ドロップバックで足を外へ向ければ膝を壊す」といった、明白な事実を指摘することすら、はばかれてきたのである。

アシュタンガにおけるアクロバットのような曲芸的側面は、先天的に身体能力に優れた者がヒエラルキーの上位に置かれ、異例の速さで指導者として認められる現実に加担している。彼等彼女らのサーカス技術は非常に崇められ、まるで道徳倫理に根ざした誠実さや思いやりといった人間性よりも、アシュタンガヨガ指導者としての重要な資質として扱われている。

増強された我々の「なにかを求める強欲な心」は、指導者のアジャストに対しての批判をも放棄してしまう。時にアジャストは殆ど虐待的であるのだが、ポーズを先へ進めたい欲に駆り立てられた私達は、それすらも甘んじて受けているのが現状だ。

生徒それぞれの個性がアシュタンガという四角い穴にキッチリ治まるように、熱意にあふれた指導者が躍起になって、アジャストという釘を打ち付けている様は、まるで悪夢のようだ。

あまりに沢山のアジャストが無自覚になされ、生徒の身体は「寺院」どころか、ポーズの完成形を作り上げるための「戦場」として扱われている中、一体どれだけの正式指導者達が、ベカーサナやガルバピンダーサナ、マリーチアーサナBのアジャストで、生徒の膝や大腿骨を傷つけてきたことだろうか?

そしてこのような事故や怪我は、指導者の過剰な熱意と、「ポーズはこうあるべきである」という執着によって、現在も毎日のように引き起こされている。

 
つながりへの架け橋

しかし同時にアジャストは、適切に行われたなら、練習を勇気つけ、可能性を高める、パワフルなツールとなりうる。肉体の可能性の広がりを垣間見せ、不可能と思っていた地点へ達する手ほどきとなり、純粋な架け橋となるのである。

このようなアジャストには繊細さと技術を要し、他人を模倣することからは生まれない、ということを確信させる。なぜならそれは、愛と労わりから生まれるからである。

そして、そのようなアジャストは、現実には殆どありえない。そして私はアジャストを受けるたびに「愛はどこにあるんだろう?」と常に思っていた。

アシュタンガヨガの練習生を対象にした、怪我や事故の正式な統計はなされたことはないが、肩と腰の問題が多く見うけられる。膝関節の手術経験が、あたかも勲章のようにとらえられる環境で、永い経験を持つプラクティショナーはみな、どこか身体に不調を抱えている。

ただここで知っておくべきなのは、これは他の流派のヨガにもあてはまり、アシュタンガヨガでは膝の問題が多いように、アイアンガーヨガでは股関節の問題が多く発生する。

長い経験を積んだ真剣なアシュタンガヨガの練習生が、関節を過剰に酷使することを示す、沢山の逸話的な証拠がある。もちろん、人生そのものすなわち歳を重ねることそのもの自体も、これに加担してはいるのだが。

仮に、「ポーズの練習というのはパドマーサナ(蓮華座)を安全に組むためにある」のだとすれば、なにかがどうも間違っているとしか思えない。アシュタンガヨガでパドマーサナは常に右足から組むが、これは積み重ねた末にラクダの背骨を折ってしまう藁のようなもので、(訳注:イスラムの諺)、サードシリーズまで練習が進むと、右足を先にかけるのにはもうウンザリだ、と身体が悲鳴をあげるようになる。

 
癒しとしてのアシュタンガ

もちろん多くの人たちが、アシュタンガヨガを通して、ガンやその他の慢性的疾患から癒された経験があることも、よく知られており、病気の症状が改善された沢山の例もある。練習そのものは、確実に疾患回復の効果がある。

その理由のひとつとして、全身をくまなくストレッチすることには非常にセラピー効果があり、緊張の解放や、感情のこわばりをほぐすからである。アシュタンガヨガが癒しであることに異論をはさむ余地はないが、このプラクティス自体が、我々に「肉体を超えた広い視野」をもたらすかどうか、という疑問は抱きつづけるべきだ。

恐らく、ときに何かが間違ってしまう、ひとつの理由として、アシュタンガヨガには一種の傲慢さがついて回るからかもしれない。もちろん傲慢さだけがアシュタンガヨガを行う者の唯一の特性である、というわけではないし、ほかのスタイルやシステムのヨガだって、同じように傲慢ともいえる。

しかしアシュタンガヨガの傲慢さの中には、高いレベルの「肉体的熟練」が伴っている。「我々のこの肉体は時とともに衰え滅んでゆく」というのが、この不確実な世界における数少ない確実な真実のひとつであるならば、もし仮にそこに執着をすれば、おのずと苦しみがうまれてくるのではないだろうか。

ふたりの瞑想者が、このような問題について語っている。ツォキニ・リンポチェは「ハタヨガ実践者が、肉体のみを使った場合の落とし穴のひとつは、傲慢さである」と述べた。リドゥジン・シックポは「肉体的なヨガは、パワーとパワーの実感をもたらす。パワーの実感は、ヨガの練習の成果によって他者をコントロールできることから生まれる。肉体的なヨガの成果はまたプライドを生み出す。この種のプラクティスは達成にとてつもない努力を要するが、自身のこころと真っ向から向き合って働きかける難しさの足元にもおよばない」と記した。

このパワーと肉体性への固執は「アシュタンガヨガのタントラ」と呼んでもさしつかえないだろう。

ヨガシステムの観点からしても、アシュタンガヨガは、その呼吸とバンダとドリスティを強調する面からタントラ的であると断言しても、あながち間違ってはいないだろう。神聖なる肉体へのアプローチというものは、タントラからインスピレーションを得ている。

しかし過剰な執着という危険を避けるために、タントラヨガの修行者は、自らの肉体が朽ちて腐敗し骨から剥がれ鳥に啄ばまれ動物に食らわれていく過程を瞑想することで、バランスを図るのだ。

多分我々現代のアシュタンギは、火葬場を訪れたり、死を迎えるホスピスで奉仕活動等を通して、避けることのできない肉体のはかなさを再確認し、フィットネスクラブやボトックスでの若作りは決して、病と老化と死を回避することはできないことを心に焼き付けるべきではないだろうか。

 
からだのやわらかさ、こころのかたさ

この固執と傲慢と同様、長い経験を持つ練習生の中に見受けられるのが、こころの非柔軟性だ。これは、肉体的な柔軟性のレベルを考慮すると、とても皮肉的ではあるのだが。

たとえばある指導者は、他の場所で練習をしたがる生徒を罵倒したり、自分の生徒が他の指導者の手助けをすることを禁じたり、とあるサーティファイド・ティーチャーに至っては、生徒がブロックを使ってよいかと尋ねたときに、「だめです、それはヨガではありません」と答えたそうである。

分かち合う代わりにコントロールをしたがり、自己防衛的であったり、グループ派閥を作ったり・・・、まるで我々は一体なにを修行しているのだろうかと疑問視される、このような態度に効果があるのは、恐らく純然たるスピードで行うプラクティスであろう。

アシュタンガヨガの練習で、ポーズを5呼吸の間保持することは、実はとても上級の技であり、普通は呼吸は簡単に浅くなってしまうものだ。パタビッジョイスの指導とは別途に、「長い呼吸をすること。10秒間でひとつの吸う息、次の10秒間でひとつの吐く息」とリノ・ミヤレは推奨していた。しかし、たいていの練習中の呼吸は、これよりもはるかに短くなってしまう。

とある研究結果では、短い呼吸と激しい肉体的運動のコンビネーションは交感神経を刺激するといわれる。これは急性ストレス反応の「戦うか、逃げるか、すくむか」という状態である。これにより、私達は、自己防衛的になり、他者を排斥したり、独尊的になる。また一方副交感神経が働くと、結びつきあう能力が生まれる。これは、柔らかく、友好的で、くつろいでいて、ゆっくりと消化していく感覚である。

アシュタンガヨガの練習は、ともすると交感神経を刺激しかねないという説は、実際考慮すべき問題であろう。この早い呼吸の良い例として、シャーラートのプライマリーCDが上げられる。

この中で、それぞれのポーズを保持する5呼吸は、およそ20秒である。これは単純計算で一呼吸あたり4秒となり、ひとつの吸う息で2秒、ひとつの吐く息で2秒ということだ。この超高速呼吸で激しい肉体運動を行うとことは、すなわち「戦うか、逃げるか、すくむか」という反応を引き起こし、オープンで包括的で豊かで思いやりに満ちるというよりはむしろ、制御と硬直をもたらしてしまうことだろう。

だけど、オープンになり、全てを包括し、豊かで、思いやりに満ちることこそが、プラクティスの意義だったのではなかったか?実際ヨガというものは、肉体だけの問題ではなかったはずだし、仮にそうだとしたら、それは単なる体操でしかない。深い愛とやさしさによって、バランスのとれた洞察を、さらに高めていくような意識の変容そのものが肝心なのだと、わかっていてはいても、アシュタンガ・ボックスの中にいると、何故かそんな風には感じられなくなってしまう。

なぜならそこには競争や敵対する意識があって、なぜならそこに対話はなくて、まるでそれぞれが自分の帝国を死守しようとしているように見える。もちろんこれは人生と同じく、「アシュタンガヨガは、“既に存在していた傾向”を映す鏡でしかない」、という説を裏付ける証拠も沢山あるのだが。

しかし、たとえば仏教の学びにおいて生徒は、まさにその“既に存在していた傾向”を滅するため、常に違った伝統の違った指導者から学ぶことを推奨されるが、これは、「練習、練習、ただたすら練習、そうすれば全てはおのずとやってくる」というアシュタンガヨガ原理の中では、とうてい成立しない論理といえよう。

 
なにが起ころうとしているのか

多くのアシュタンギは、ポーズのシーケンスという肉体的な練習に終始するのみだが、さて、これは一体、なんのプラクティスなのだろう?

ひとりのアシュタンガ練習生が語ったことだが、彼はサードシリーズを練習することで、本当に“何か”が起こるだろうと期待していたが、実際なにも起こらなかった。その後、彼は次のフォースシリーズも完結したが、それでもなにひとつ変わらなかった。恐らく「なにも起こらなかった」という事実そのものこそが、彼にとっての最大の学びだったのかもしれない。

彼の現在のプラクティスは、週に数回スタンディングを行い、あとはただ座して自己を見つめることとなった。他の指導者の話をするときに彼は「自分の内を見つめて、その人に対して敵意や憎しみの気持ちがないかどうか確認す必要がある」と語った。

物質的な現実世界にのみ身を置く、その他大勢のアシュタンギとは対照的に、彼の誠実さは非常に深遠である。なぜならば、この瞑想の静謐さの中でこそ我々は、自己を明晰に省み、洞察深い純然たる意識を育むことが可能になるからだ。

確かにアシュタンガヨガは、我々に繊細な意識を持たせ、思慮深くさせてくれるかもしれない。しかし、肉体的なプラクティスのみを行う人々によって提唱された、「動く瞑想」というコンセプトも、我々の多くにとっては非現実的であることもしばしばである。

「動く」という行為によって我々は、自らを愉しませること可能だが、それは、この肉体的刺激に耽溺した状態に身を置くことで、自らの動揺や混乱を寄せ付けないよう防衛しているのかもしれない。黙して座し、自己の奥底を観照する、その純然たる静謐さは、こういった肉体を動かすことからは、生まれてこないだろう。

もし我々が、瞑想の退屈さを抱擁するように受け入れるならば、内面の静けさは完璧なまでの均衡状態となり、そのときに我々は喜びを求める飢餓状態から解放され、それまでの幸せを求める足掻きや、居心地の悪さとの戦いは、次第に和らぎ、ついにはリラックスするのである。

アシュタンガヨガのシステムでは、ポーズからポーズへと流れるように動くとき、意識をしっかりと向ける矛先が明確に示されている。が、しかし我々はただ肉体に固執するだけで、静謐さの中に溶けてゆくような深い地点までは向かおうとしない。

なぜならば、それを可能とするような妥当性が、システム自体に欠けていることもさながら、アシュタンガヨガが支持する伝統のひとつを崩壊させかねない矛盾を引き起こすからである。

すなわち、肉体のアサナは、八支則のうち6つめ7つめにあたるダーラナおよびディヤーナという、座して瞑想するための準備である、という伝統だ。我々の日々の汗と努力と血の涙はすべて、これらの支則によって、いとも簡単に下位へ貶められてしまうのだ。

私はアシュタンガヨガの練習がとても好きで、アシュタンガヨガが与えてくれるパワーを大切に思い、そのフロー、練習における集中は素晴らしいと感じている。しかし、それでも、そこには何かが欠けている気がしてならない。

「我々は非常に柔軟な身体を持つことはできても、こころは固いままだ」という事実を無視するかのように、なぜ我々は滑稽なまでに肉体の柔軟性に魅了され、情熱を傾けているのか。

多くのプラクティショナーに共通する問題として、瞑想やプラナヤマへのシフトを不可能にしているのは、アシュタンガヨガのシーケンス自体が、肉体にのみ留まっているからではないだろうか。

そして過剰なまでにインテンスな練習によって、視野を狭め、箱の外を見ることを押し留めてしまうというのは、いわゆる“カルト”に多くみられる傾向でもあるのだ。

 
こころのおそうじ

沢山のアシュタンギが、「瞑想をする時間がとれない」とこぼすのを頻繁に耳にする。もちろん、我々は常に様々な要求に応えるべく、せわしない日々を送っている。子育てをはじめとする責務や、この現実社会で生き残るための様々な困難などなど・・・。しかし、結局は、我々自身がなにを優先するか、というだけの話である。

パタビジョイスは瞑想を「マッド・アテンション(狂った意識の向け方)」と呼び、誰にも教えることはなかったという。

実際のところ我々は、常にせわしなく落ち着きのない心の領域においてよりも、粗大な肉体の中に自身を宿らし落ち着かせることのほうが、容易に行えるのである。

パタビジョイスはまた、こうも言った。
「これは肉体のプラクティスではなく、心のクリーニングである」

我々は、いつか、いずれかの時点で、自身の内面を深く見つめざるを得なくなるのだから、「アサナの目的は、長い時間にわたって瞑想ができるように、我々の肉体をチューニングするためである。」ということを、常々思い起こす必要がある。

身体的プラクティスにおいて、感覚や知覚が最も重要だとみなすならば、それは心のトレーニングよりも肉体性を優先しているということを意味する。心と肉体は、明らかに深長な重複と密接なつながりがあるが、しかし、心と肉体への働きかけには、歴然と異なったテクニックがあるのだ。

パタビジョイス直接師事した初めての西洋人のひとりノーマン・アレンは、パタビ・ジョイス(グルジ)へこう尋ねたそうだ。
「身体的プラクティスは、いったい私達をどのくらいの高みまで連れて行くのでしょうか?」

それに対するグルジの答えは非常に簡潔であった。
「たいていの場合、どこへも到達しない。ほかのステップに進まない限りは」

サキョン・ミパム・リンポチェは、チョギャム・トゥルンパによって設立された仏教ネットワーク・シャンバラのスピリチュアル・リーダーであるが、彼はパタビジョイスに学んだアシュタンガヨガのプラクティショナーでもある。

彼は、瞑想的な形式(仏教と呼ばれるもの)と、肉体的な形式(ヨガと呼ばれるもの)の間の大きな溝を埋める橋渡しの必要性を説いている。これらの瞑想的形式の説明として彼は、こう強調する。

「何が起きているのかを理解するためには、まず状況を安定させる必要がある。ゆったりとスローダウンし、我々がなにもので、なにをしているのか、をしっかりと感じ取らなければならない。瞑想という練習を通して我々は、マインドと知覚の混乱を通り抜ける術を学ぶのだ」

我々は精悍で引き締まったアシュタンガ的肉体を持つが、究極的には、それが一体なんだというのだろう?

この肉体的卓越さのどこに、我々が蛇だと思い込んでいるロープを目の前にしたときに、その本質を認識するための、既に条件つけられた存在からの解放や、事象現象への洞察や、慈悲の心へと繋がる経験が、あるのだろうか?

 
へびとロープ

おそらく、パタビジョイスとチョギャム・トゥルンパは共に、ロープはロープだと認識していたに違いない。二人は共に、南インドのブラーミンおよびチベット人として、自国の文化圏外の生徒などひとりもいない環境から、幾千もの西洋人の熱狂的な信者に囲まれる運命となった。この二人のアプローチは共に、良い意味での「トリックスター」と呼ばれるものであった。彼らは次第に規定や規則を作り出し、時に生徒達の覚醒のプロセスを手助けするために、愚弄することもあった。

中略(彼らの影響が勢力を増すにつれ、コミュニティが巨大化するにつれ、個々と向きあう指導がカリキュラム化されることになる)

そして近年のアシュタンガヨガの世界における明らかな変化は、グルジの死と、シャラートへの後継だろう。

 
興味深い変換期

グルの死というものは、得てして興味深い変革の時でもある。

最近のアシュタンガヨガの世界はまるで企業と化し、あたかもビクラムヨガのようなブランド化が顕著だ。シーケンスの厳格さが増し、金儲け主義に拍車がかかり、中央集権的コントロールがなされている。とあるプラクティショナーによると、シャラートによって最近導入された、オーソライズ指導者にとって必須となるマイソールでの2週間ティチャー・トレーニングは、容易に2日間ほどに要約される程度の内容にもかかわらず、1回あたり70人の指導者が各数十万円を支払い参加することで、アシュタンガヨガ界のヒエラルキーの中に留まろうとしている(注釈:このティーチャー・トレーニングへ参加しないとオーソライズの資格は剥奪される)

アシュタンガヨガはコントロールを保持するために、収入を保持するために、トレードマーク化していくのだろうか?ビクラムヨガのように、変革はビジネスとして進化することもあり得るのだが、自由を説く哲学の制度化、解放を約束するプラクティスの企業化を、果たしてどうやって防ぐことができるのだろうか?

恐らく問われるべきは、我々が常にどのような態度で世界と立ち向かうか、という事ではないだろうか。この世界の中で、洞察と優しさを持ちながら自立した個としてのパワーを高めていくのか、それとも、とりまく世界の支配に任せ個を見失っていくのか。

自由を得るということ、すなわち、自己変容のために必要となるのは、アウェアネス-常に注意深く気付いている状態、常に覚醒して用心深い状態、ということでもある。これと比較すると、単に肉体的身体をストレッチすることの方が、よほど容易であることに気がつく。そしてそれは、自分自身が精神的成長の旅路にあるという自覚を、時として迷わすこともあるのだ。

 
それぞれの異なった行程

恐らくこの精神成長の旅路は、とても時間のかかる行程なのだろう。

BSKアイアンガー師は「私の哲学的な指導は、ヨガの練習と指導を始めて30年後の1960年に入ってから、ようやく始まった」と語っているが、しかし我々にそのような長い期間を過ごす余裕が、はたしてあるのだろうか?特にあらゆるものがスピード化された現代生活において、静かに座ってマインドを観察するための時間が、どれだけあるのだろうか?

しかしこれは「一生涯をかけて悟りを成す」という意味ではなく、いずれかの時点で、それまでの何かが大きく転換(シフト)する必要が発生する、ということなのではないだろうか?では、我々は、このスピード化された現代社会の中、それ相応に充分迅速にシフトしているのだろうか?

道元禅師が長期の瞑想修行から戻った際に、弟子達から何を学んできたのかと聞かれ「やわらかいこころ」と語ったように、また、ダライラマが「最も幸せだったのはいつか?」と問われたインタビューに「いまこのときです」と答えたように、永きにわたる修行の末に、可能となるのは、こころの不安を少なくし、この瞬間に生き生きと存在できるようになるという、とてもシンプルなものなのだ。

それではアシュタンガヨガは、このような境地へ至る手助けをしてくれるのだろうか?私個人の見解としては、「よくわからない」という回答しかでてこない。確かに踏み石にはなるだろうし、純然たる意識へ向かう道筋の一部ではあるようにも感じる。しかし、大抵において、身動きが取れなくなったり、あまりに厳格で堅苦しくなったり、こだわりに固執しすぎてしまう傾向が、そこには歴然とあることも事実だ。

 
いったいなにがおきているのか?

しかし色々と検証していくと、このアシュタンガヨガ文化だけに留まらず、おそらく全ての「伝統的」な教えの中には、欠陥や弱点があることを、常に覚えておきたい。

例えば、禅寺でとある修行僧が精神に恐慌をきたした際、彼の師は「もし死にそうだと感じるのなら、どうぞ安らかに死んでゆきなさい」と言ったという。

またある女性指導者は参加した瞑想センターで「この瞑想を行うのであれば、あなたが行っている身体の練習は放棄しなさい。他の要素を禅に混合することは、我々の伝統の系譜からは逸脱しています」と諭され、いわゆる「正統派」に潜む頑固さと対面したという。

瞑想者の一部は、生への執着を絶つために、拒絶という瞑想ツールを用いる結果、冷淡で、距離感があり、つながりが希薄な印象を与える。

瞑想という世界においても、アシュタンガ同様、懸命なまでの努力と、それに伴う妬みの心を経験することになる。

この2年ほど思案してきたことを、このエッセイに書き留めてきたが、7世紀のチャンドラキルティ師の言葉は、常に胸に留めておきたい。

「己の信ずるものへの執着、他者の異なる意見への嫌悪・・・これらが我々の思考のすべてだ」

これまで自分の精神を構成してきたものは、心が形を成そうと揺れ動く、つかの間の閃きの集まりでしかない。つまり、呼吸をして、身体を曲げたり伸ばしたりしながら、分裂と対立を容易に生み出すことも、これまた人間の心の自然な摂理なのである。これは時にとても有益となるが、また時にそれは「ブランド構築と帝国の死守」という形にもなりうる。

よりよく生きるためのプラクティスとして、それぞれの異なった道筋が、どのようにその目的を指し示すか、というのはとても興味深いところである。そして問題は、ひとつひとつの小さなさざ波が、自身を大海原から切り離された存在として認識されることであり、その分離が恐怖を生み出している。そして、このような不安定さと、どのように対応するかということ自体が、プラクティスの目的のひとつでもあるのだ。

プラクティスの目的はまた、誤った知覚認識を克服し、自身の内と外とのつながりを可能にすることによって、様々な伝統が表現するところの、精神の煌き、すなわち、洞察と平安に満ちた、内なる空の輝きを発見することでもある。

ある人はつまづくが、ある人にはそんなことは起こらない。このアシュタンガヨガというツールは、とてもパワフルな変革をもたらすプラクティスではあるが、我々は自身のプラクティスを、好奇心をもって、見つめなおす必要があるのかもしれない。

私は、自分のプラクティスを巡るあれこれに、なんらかの意味づけをしようと試みている一人にすぎない。「裸の王様」を目の当たりにした少年のように、曇りのない目でクリアにものごとを見たいだけなのかもしれない。

私の個人的なアシュタンガに対する感情は、まず深い愛情と敬意がある。しかしそこには、表面的な部分における固執もある。私にとってアシュタンガヨガは、汗だくになって懸命に努力するよりも、アサナへの執着をあまり持たない穏やかなプラクティスを、日々の慣習的行為として淡々と行うことのほうが、より深い効果が得られるようだ。

プラクティショナーとして私達が常に自身に問いかけるべきは、果たして我々の行っているプラクティスは、宗教学者のハストン・スミスが語ったように

「気づきの意識、辛抱強さ、そして寛大さをさらに高め、現代社会の複雑さ、動揺、不確実さに対して、豊かな創造力をもって対処していくことを可能にする」

ということへ向かっているのか否か、ではないだろうか。

そしてできることなら、この道に異なる視点という、ちょっとしたスパイスをふりかける必要もあるかもしれない。そうでもしないと、この道はとても狭く堅苦しく、身動きとれないほど張り詰めすぎて、神経症にもなりかねない。

「我々はプロセスであり、ほどけるがごとく変容展開しているのである」

この詩人の言葉のように、真の自己の発見は、身動きのとれない状況からは決して生まれてこないはずだ。

特別な回答など、どこにも存在しない。それよりも大切なのは、どれだけ自身に対して誠実となれるか、そしてその誠実さを、優しさをもって調和させていけるか、なのだろう。そして望むらくは、常に疑問を持ち、可能な限りオープンになり、さらなる安らかな存在への道を、心から感じられるように。